(原題:La Lectrice )88年フランス作品。とても面白く観た。本作の主題は、ズバリ言って“読書の奥深さと官能性”であろう。本を読む、そして読み聞かせるというのは、日常生活から別の世界に逸脱するということだ。
ならば映画もそうではないかという意見もあるだろうが、読書においては自分から書物に能動的に対峙しなければ、別世界への扉は開けない。読み聞かせの場合も、言葉だけで情景を想像するという主体的な行為が必要だ。映画(あるいはテレビ)のように、放っておいてもメディアが音と映像を勝手に流していくような構図とは、一線を画している。
読書が趣味のコンスタンスは、自分の読んだ本の世界を頭の中で創造するのが大好きだ。今日も「読書する女」という本を読んで、本の朗読を職業とする女王人公マリーが遭遇する出来事を空想していた。マリーの訪問先の人々は、いずれも一風変わっている。半身不随のマザコン少年にはモーパッサンの「手」を読んでやるが、刺激が強すぎて彼は発作を起こしてしまう。
精神病院に足を運べば、医者から“患者に死んだ作家の本を読み聞かせるな”と注意される。離婚して欲求不満が溜まっている中年オヤジにデュラスの「愛人 ラマン」を読んでやると、互いにその気になってしまう。訪問先の幼い女の子は「不思議の国のアリス」が気に入っており、朗読するため2人で遊園地に行くと、マリーは誘拐犯と間違えられる。
とりとめもない話なのたが、冗長な印象は無い。それは本編がヒロインの読んでいる本の映像化であり、マリーが出会う人々は、その本の中のキャラクターであることが大きいだろう。いわば捻りの利いた三重構造で、この構図自体が興趣を呼び込む。そして登場人物達は悩みを抱えていながら、接した本の内容によって、自分と向き合うことが出来る。
マリーは狂言回しなのだが、その言動を読者として眺めているコンスタンスの内面とシンクロし、それがまた終盤で現実世界にフィードバックされてゆくという凝った筋書きには唸るばかりだ。
ミウ=ミウ扮するマリーの造型がとても良い。ベートーヴェンの音楽に乗って飄々と訪問先を渡り歩く様子は、浮き世離れした存在感を醸し出す。それでいてけっこう妖艶なのだから、言うこと無しだ(笑)。ミシェル・ドヴィルの演出には余計な力みが見られず、スムーズにドラマを最後まで持っていく。クリスチャン・リュシェやシルヴィー・ラポルト、ミシェル・ラスキーヌといった脇の面子も良い。
ならば映画もそうではないかという意見もあるだろうが、読書においては自分から書物に能動的に対峙しなければ、別世界への扉は開けない。読み聞かせの場合も、言葉だけで情景を想像するという主体的な行為が必要だ。映画(あるいはテレビ)のように、放っておいてもメディアが音と映像を勝手に流していくような構図とは、一線を画している。
読書が趣味のコンスタンスは、自分の読んだ本の世界を頭の中で創造するのが大好きだ。今日も「読書する女」という本を読んで、本の朗読を職業とする女王人公マリーが遭遇する出来事を空想していた。マリーの訪問先の人々は、いずれも一風変わっている。半身不随のマザコン少年にはモーパッサンの「手」を読んでやるが、刺激が強すぎて彼は発作を起こしてしまう。
精神病院に足を運べば、医者から“患者に死んだ作家の本を読み聞かせるな”と注意される。離婚して欲求不満が溜まっている中年オヤジにデュラスの「愛人 ラマン」を読んでやると、互いにその気になってしまう。訪問先の幼い女の子は「不思議の国のアリス」が気に入っており、朗読するため2人で遊園地に行くと、マリーは誘拐犯と間違えられる。
とりとめもない話なのたが、冗長な印象は無い。それは本編がヒロインの読んでいる本の映像化であり、マリーが出会う人々は、その本の中のキャラクターであることが大きいだろう。いわば捻りの利いた三重構造で、この構図自体が興趣を呼び込む。そして登場人物達は悩みを抱えていながら、接した本の内容によって、自分と向き合うことが出来る。
マリーは狂言回しなのだが、その言動を読者として眺めているコンスタンスの内面とシンクロし、それがまた終盤で現実世界にフィードバックされてゆくという凝った筋書きには唸るばかりだ。
ミウ=ミウ扮するマリーの造型がとても良い。ベートーヴェンの音楽に乗って飄々と訪問先を渡り歩く様子は、浮き世離れした存在感を醸し出す。それでいてけっこう妖艶なのだから、言うこと無しだ(笑)。ミシェル・ドヴィルの演出には余計な力みが見られず、スムーズにドラマを最後まで持っていく。クリスチャン・リュシェやシルヴィー・ラポルト、ミシェル・ラスキーヌといった脇の面子も良い。