昭和33年作品。この頃の大映の実力を再確認できる一本。歌舞伎のキャラクター及び手法を大胆に取り入れながら、娯楽時代劇としても高いレベルの出来を示している。それでいて1時間半のプログラム・ピクチュアとしての枠内に収まっているのも天晴だ。
旗本の不良分子の集まりである“王手飛車連”の鯉沼伊織らは、富豪の雲州公が言うことを聞かない小娘を内緒で自宅の座敷牢に押し込めていることを知り、これを強請りのタネにしようと雲州邸に乗りこむが、町のやくざで“白波五人男”の一人である弁天小僧菊之助に先を越されてしまう。菊之助はその娘・お半を連れて逃げ、娼家に売り飛ばそうとするが、彼女の身の上を聞くうちに情が移って離れがたくなってしまう。
一方、雲州公を強請ろうとした件が老中に聞こえ、“王手飛車連”は処罰されそうになる。伊織は叔父から隠居せよとの命を受けるが、懲りない彼は今度は呉服屋浜松屋幸兵衛を強請ろうとする。“白波五人男”の面々はその金を横取りすることを画策するが、町奉行の遠山左衛門尉の介入、さらに両親を知らないという菊之助の出生の秘密も絡み、事態は複雑な様相を呈してくる。
短い上映時間の中で多くのモチーフやプロットを積み重ねながら、ソツなくまとめてしまう監督の伊藤大輔の手腕は見事である。アクション場面も万全で、殺陣の上手さは申し分ない。菊之助が手をポーンと打つと歌舞伎の場面に早変わりする呼吸の巧みさ。活劇としての面白さとアートっぽい様式美の見事な融合。卓越したストーリーテリングは痛切なラストまでグイグイ観客を引っ張っていく。
菊之助とお半との切ない恋や、盗っ人ながら情には厚い“白波五人男”の男気など、次から次と見せ場が繰り出されて飽きることが無い。主演の市川雷蔵は文句なしで、さすがのカリスマ性を発揮している。勝新太郎や青山京子、田崎潤、島田竜三、黒川弥太郎、河津清三郎といったキャストも実に時代劇らしい面構えで嬉しくなる。撮影は宮川一夫で、ワイド画面を軽々と使いこなす手際の良さが光る。斎藤一郎の音楽も職人芸だ。
旗本の不良分子の集まりである“王手飛車連”の鯉沼伊織らは、富豪の雲州公が言うことを聞かない小娘を内緒で自宅の座敷牢に押し込めていることを知り、これを強請りのタネにしようと雲州邸に乗りこむが、町のやくざで“白波五人男”の一人である弁天小僧菊之助に先を越されてしまう。菊之助はその娘・お半を連れて逃げ、娼家に売り飛ばそうとするが、彼女の身の上を聞くうちに情が移って離れがたくなってしまう。
一方、雲州公を強請ろうとした件が老中に聞こえ、“王手飛車連”は処罰されそうになる。伊織は叔父から隠居せよとの命を受けるが、懲りない彼は今度は呉服屋浜松屋幸兵衛を強請ろうとする。“白波五人男”の面々はその金を横取りすることを画策するが、町奉行の遠山左衛門尉の介入、さらに両親を知らないという菊之助の出生の秘密も絡み、事態は複雑な様相を呈してくる。
短い上映時間の中で多くのモチーフやプロットを積み重ねながら、ソツなくまとめてしまう監督の伊藤大輔の手腕は見事である。アクション場面も万全で、殺陣の上手さは申し分ない。菊之助が手をポーンと打つと歌舞伎の場面に早変わりする呼吸の巧みさ。活劇としての面白さとアートっぽい様式美の見事な融合。卓越したストーリーテリングは痛切なラストまでグイグイ観客を引っ張っていく。
菊之助とお半との切ない恋や、盗っ人ながら情には厚い“白波五人男”の男気など、次から次と見せ場が繰り出されて飽きることが無い。主演の市川雷蔵は文句なしで、さすがのカリスマ性を発揮している。勝新太郎や青山京子、田崎潤、島田竜三、黒川弥太郎、河津清三郎といったキャストも実に時代劇らしい面構えで嬉しくなる。撮影は宮川一夫で、ワイド画面を軽々と使いこなす手際の良さが光る。斎藤一郎の音楽も職人芸だ。