(英題:A Short Film about Love )名匠クシシュトフ・キェシロフスキ監督が88年に母国ポーランドで撮った作品。孤独な少年が、向かいのアパートに住む年上の女流画家の行動を覗き見てるうちに、勝手な恋心を抱くようになるという、どう考えてもポルノ映画かサイコ・サスペンスにしかならないようなネタを、ここまで深いラヴ・ストーリーにしてしまうキェシロフスキの才能には改めて舌を巻く。
19歳の郵便局員トメクは、毎晩8時半に、どこからか盗んできた望遠鏡で通りの向かいのアパートに住む女流画家マグダの部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは興味と嫌悪感の混じった複雑な感情を抱き、執拗に無言電話をかける。さらに彼は、彼女に近付くため牛乳配達のアルバイトまで始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、実際に彼女に会うためニセの為替通知を彼女のポストに届ける。
確かに主人公のやってることは悪質なストーカーそのもので、イタズラ電話をかけたりやニセの郵便物を放り込んだりと、けっこう手口は陰湿だ。ところが、恋人と別れて一人で泣く彼女を見た彼が、翌朝彼女に直接会い“昨日、君は泣いていた”と声を掛けるあたりから映画は急展開。彼の考える“純粋だが手前勝手な愛”と彼女が経験してきた“世間でいう愛の正体”との比較を通して、人間性の深いところに切り込むキェシロフスキ演出が冴えてくる。
もちろん本当は両方とも“本当の愛”ではなく“単なるエゴイズム”であって、愛とは相手を思いやる無私の精神であることが映画の中でも示されるのだが、それをスクリーン上に結実させたラストシーンは素晴らしい。たぶん私が今まで観た中で最も見事なラストシーンのひとつだろう。この“もうひとりの自分によって生かされている”という作者独自のモチーフは、後年撮られる傑作「ふたりのベロニカ」(91年)の中で全面展開されることになる。
トメク役のオラフ・ルバシェンク、マグダに扮するラジーナ・ジャポロフスカ、いずれも好演だ。そしてキェシロフスキ監督とよくコンビを組むズビグニエフ・プレイスネルの音楽も申し分ない。
19歳の郵便局員トメクは、毎晩8時半に、どこからか盗んできた望遠鏡で通りの向かいのアパートに住む女流画家マグダの部屋を覗き見ていた。次々と違う男を部屋に連れこむマグダに、トメクは興味と嫌悪感の混じった複雑な感情を抱き、執拗に無言電話をかける。さらに彼は、彼女に近付くため牛乳配達のアルバイトまで始める。そしてある晩、恋人と別れて一人で泣くマグダを見たトメクは、翌朝、実際に彼女に会うためニセの為替通知を彼女のポストに届ける。
確かに主人公のやってることは悪質なストーカーそのもので、イタズラ電話をかけたりやニセの郵便物を放り込んだりと、けっこう手口は陰湿だ。ところが、恋人と別れて一人で泣く彼女を見た彼が、翌朝彼女に直接会い“昨日、君は泣いていた”と声を掛けるあたりから映画は急展開。彼の考える“純粋だが手前勝手な愛”と彼女が経験してきた“世間でいう愛の正体”との比較を通して、人間性の深いところに切り込むキェシロフスキ演出が冴えてくる。
もちろん本当は両方とも“本当の愛”ではなく“単なるエゴイズム”であって、愛とは相手を思いやる無私の精神であることが映画の中でも示されるのだが、それをスクリーン上に結実させたラストシーンは素晴らしい。たぶん私が今まで観た中で最も見事なラストシーンのひとつだろう。この“もうひとりの自分によって生かされている”という作者独自のモチーフは、後年撮られる傑作「ふたりのベロニカ」(91年)の中で全面展開されることになる。
トメク役のオラフ・ルバシェンク、マグダに扮するラジーナ・ジャポロフスカ、いずれも好演だ。そしてキェシロフスキ監督とよくコンビを組むズビグニエフ・プレイスネルの音楽も申し分ない。