(原題:TAXI BLUES)90年ソビエト作品。ペレストロイカが進められていたソ連で作られているが、当時の状況及びその後のロシア社会の予想図を如実に伝えているという意味で、実に興味深い映画だ。政治体制の改革運動が必ずしも人心を良い方向に導かないことを、ヴィヴィッドに描き出している。
モスクワのタクシー運転手のシュリコフは、ある日客として乗せたユダヤ人のサックス奏者のリョーシャが一文無しであることを知り、怒ってサックスを担保として取り上げる。しかし、リョーシャはそれが原因で失業してしまう。責任を感じたシュリコフは彼に住む場所を提供し、2人の奇妙な共同生活が始まる。そんな折、アメリカから来た有名なミュージシャンに認められたリョーシャは、シュリコフのもとを離れてアメリカツアーに同行。やがて人気者になる。モスクワで凱旋公演をおこなうことになったリョーシャに対し、シュリコフは嫉妬に近い感情を抱く。そしてコンサートが終わった後、2人の関係は退っ引きならない状態へと追い込まれていった。
言うまでもなく、シュリコフは古い体制のソ連を代表する人物で、リョーシャのキャラクターは改革後の新しいロシアをイメージしている。だが、リョーシャの不遜な振る舞いをみても分かる通り、ペレストロイカ後のロシアがそれより前の時代に比べて決定的に良くなったのかというと、決してそうは言えないのだ。
鬱屈した雰囲気の共産党の一党独裁から、体制だけは民主化の装いを見せても、国民の心は落ち着きを得られない。何しろシュリコフはヘタに自由なアメリカの文化を目の当たりにした結果、単に暴力衝動を募らせるだけに終わってしまうのだから。このディレンマは現在においても尾を引いており、詰まるところ独裁の担い手が共産党からプーチン一派に変わっただけで、全体主義的な傾向は継続したままだ。
パーヴェル・ルンギンの演出は粘り強く、タクシーの中や運転手のアパートなどの閉じられた空間おける人間同士の葛藤を容赦なく描ききる。また、時折映し出される(変わりゆく)モスクワの街の風景との対比は見事だ。主演のピョートル・ザイチェンコとピョートル・マモノフの演技も目覚ましい。同年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。見逃せない力作である。
モスクワのタクシー運転手のシュリコフは、ある日客として乗せたユダヤ人のサックス奏者のリョーシャが一文無しであることを知り、怒ってサックスを担保として取り上げる。しかし、リョーシャはそれが原因で失業してしまう。責任を感じたシュリコフは彼に住む場所を提供し、2人の奇妙な共同生活が始まる。そんな折、アメリカから来た有名なミュージシャンに認められたリョーシャは、シュリコフのもとを離れてアメリカツアーに同行。やがて人気者になる。モスクワで凱旋公演をおこなうことになったリョーシャに対し、シュリコフは嫉妬に近い感情を抱く。そしてコンサートが終わった後、2人の関係は退っ引きならない状態へと追い込まれていった。
言うまでもなく、シュリコフは古い体制のソ連を代表する人物で、リョーシャのキャラクターは改革後の新しいロシアをイメージしている。だが、リョーシャの不遜な振る舞いをみても分かる通り、ペレストロイカ後のロシアがそれより前の時代に比べて決定的に良くなったのかというと、決してそうは言えないのだ。
鬱屈した雰囲気の共産党の一党独裁から、体制だけは民主化の装いを見せても、国民の心は落ち着きを得られない。何しろシュリコフはヘタに自由なアメリカの文化を目の当たりにした結果、単に暴力衝動を募らせるだけに終わってしまうのだから。このディレンマは現在においても尾を引いており、詰まるところ独裁の担い手が共産党からプーチン一派に変わっただけで、全体主義的な傾向は継続したままだ。
パーヴェル・ルンギンの演出は粘り強く、タクシーの中や運転手のアパートなどの閉じられた空間おける人間同士の葛藤を容赦なく描ききる。また、時折映し出される(変わりゆく)モスクワの街の風景との対比は見事だ。主演のピョートル・ザイチェンコとピョートル・マモノフの演技も目覚ましい。同年のカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。見逃せない力作である。