(原題:Power Play)78年イギリス作品。骨太のポリティカル・サスペンスであり、しかも扱われている題材は古くない。それどころか、冷戦終結後の混沌期を経て、今や新・冷戦時代に突入したかと思われる先の見えない現在において参考になるようなモチーフを提示している。観て損の無い快作と言えよう。
舞台はヨーロッパの架空の国。そこでは経済大臣がテロリスト・グループによって誘拐されて殺されるという事件に端を発し、テロリスト制圧を口実に軍隊や秘密警察が暗躍する不穏な状態に陥っていた。秘密警察署長のブレアーは多数のテロリストを逮捕するが、その中には退役まで間もないナリマン大佐と親しい少女ドンナが含まれていた。ナリマンは秘密警察に対して彼女の釈放を要求するが、ドンナは無残にも殺されてしまう。
怒ったナリマンは反体制の立場を取る陸軍大学の教授ルーソーやカサイ大佐と結託し、クーデターを画策する。だが、実行部隊を立ち上げるまでに数々のトラブルが発生。戦車隊を率いるゼラー大佐の協力を取り付けるが、政府側は主要メンバーのスキャンダルを暴いて反政府勢力を揺さぶりにかかる。裏切りに次ぐ裏切りで敵も味方も判別出来ない中、果たして最後に笑うのは誰なのか。
とにかく、脚本の巧みさに圧倒される。クーデター側とそれを抑え込もうとする秘密警察との、虚々実々の駆け引き。強固なプロットと饒舌に過ぎない節度のあるシークエンスの組み立て。そして意外な結末と、まるで教科書のような御膳立てだ。これが原作ものではなく、オリジナルのシナリオだというのだから天晴れである。
マーティン・バークの演出は力強く、軍隊が街を制圧する場面のダイナミズムや、タメの効いたシーンの切替などに目を奪われる。そして、ピーター・オトゥールやデイヴィッド・ヘミングス、ドナルド・プレゼンスといったクセ者俳優達を楽々と使いこなしているのも嬉しい。
映画はニューヨークのテレビのトーク・ショーから始まるが、これは作劇に臨場感を与えると共に、今も世界の各地で欲得ずくの“パワープレイ”が行われていることを強く印象付けられる。ケン・ソーンによる勇壮な音楽と、オーサマ・ラウィのカメラが捉えた寒々とした内乱地域の描写も記憶に残る。
舞台はヨーロッパの架空の国。そこでは経済大臣がテロリスト・グループによって誘拐されて殺されるという事件に端を発し、テロリスト制圧を口実に軍隊や秘密警察が暗躍する不穏な状態に陥っていた。秘密警察署長のブレアーは多数のテロリストを逮捕するが、その中には退役まで間もないナリマン大佐と親しい少女ドンナが含まれていた。ナリマンは秘密警察に対して彼女の釈放を要求するが、ドンナは無残にも殺されてしまう。
怒ったナリマンは反体制の立場を取る陸軍大学の教授ルーソーやカサイ大佐と結託し、クーデターを画策する。だが、実行部隊を立ち上げるまでに数々のトラブルが発生。戦車隊を率いるゼラー大佐の協力を取り付けるが、政府側は主要メンバーのスキャンダルを暴いて反政府勢力を揺さぶりにかかる。裏切りに次ぐ裏切りで敵も味方も判別出来ない中、果たして最後に笑うのは誰なのか。
とにかく、脚本の巧みさに圧倒される。クーデター側とそれを抑え込もうとする秘密警察との、虚々実々の駆け引き。強固なプロットと饒舌に過ぎない節度のあるシークエンスの組み立て。そして意外な結末と、まるで教科書のような御膳立てだ。これが原作ものではなく、オリジナルのシナリオだというのだから天晴れである。
マーティン・バークの演出は力強く、軍隊が街を制圧する場面のダイナミズムや、タメの効いたシーンの切替などに目を奪われる。そして、ピーター・オトゥールやデイヴィッド・ヘミングス、ドナルド・プレゼンスといったクセ者俳優達を楽々と使いこなしているのも嬉しい。
映画はニューヨークのテレビのトーク・ショーから始まるが、これは作劇に臨場感を与えると共に、今も世界の各地で欲得ずくの“パワープレイ”が行われていることを強く印象付けられる。ケン・ソーンによる勇壮な音楽と、オーサマ・ラウィのカメラが捉えた寒々とした内乱地域の描写も記憶に残る。