(原題:The Hotel New Hampshire )84年イギリス・カナダ・アメリカの合作。戦前から始まる一家族の物語を大河ドラマ風に描く映画なのだが、内容は変化球を利かせた異色作だ。雰囲気としてはジョージ・ロイ・ヒル監督の「ガープの世界」(82年)に似ていると思ったら、原作は同じジョン・アーヴィングの小説だった。とはいえ元ネタは(私は未読だが)かなりの長編。それを1時間49分にまとめるというのは当然ダイジェスト版にしかならないが、それを逆手に取ったようなスムーズな作劇が印象的である。
1939年、メイン州アーバスノットのホテルでアルバイトをしていた男子学生ウィン・ベリーは、そこで同郷のメアリーと知り合い、仲良くなる。やがて結婚した2人は、5人の子供をもうける。そしてウィンはメアリーの母校の女学校を買い取って改装し“ホテル・ニューハンプシャー”を開業。しかし当初は好調だった業績もいつしか左前になる。そんな時、かつてのアーバスノットのホテルのオーナーで戦後はオーストリアに移住していたフロイトから、仕事を手伝って欲しいとの依頼がウィンに届く。こうして一家はウィーンに赴く。
ウィンとメアリーをはじめ5人の子供たちもクセ者揃いで、彼らが遭遇する出来事もレイプや飛行機事故、同性愛、近親相姦、自殺、テロなどイレギュラーなものばかり。それぞれのエピソードで一本映画が作れそうなほどだが、あくまで本作はサッと流すのみだ。ならば物足りないのかというと、全然そうではない。モチーフを次々と繰り出して手際よくパッパッと切り上げることで、ダイジェストゆえの速さと描写の鋭さが上手く活かされていると思う。
さらに、劇中で何度か出てくる“人生はお伽話だ”というセリフがその手法をバックアップする。少なからぬ数の登場人物が途中で退場してしまうのだが、しょせんは“お伽話”のように歴史は各人の空想的なフィクションの積み上げで全体が粛々と進んでゆくという達観が強調される。脚色も担当したトニー・リチャードソンの演出は闊達な“映像派”ぶりと、過去にいくつかの英国文学の映画化をモノにしたようにソリッドな気品というべきテイストが横溢している。
ボー・ブリッジスやリサ・ベインズ、ロブ・ロウ、一人二役のマシュー・モディーンと、キャストは賑やかだ。そして何より、ジョディ・フォスターとナスターシャ・キンスキーの“夢の共演”には本当に嬉しくなる。デイヴィッド・ワトキンのカメラによる煌めく映像美と、オッフェンバックの音楽もかなりの効果を上げている。
1939年、メイン州アーバスノットのホテルでアルバイトをしていた男子学生ウィン・ベリーは、そこで同郷のメアリーと知り合い、仲良くなる。やがて結婚した2人は、5人の子供をもうける。そしてウィンはメアリーの母校の女学校を買い取って改装し“ホテル・ニューハンプシャー”を開業。しかし当初は好調だった業績もいつしか左前になる。そんな時、かつてのアーバスノットのホテルのオーナーで戦後はオーストリアに移住していたフロイトから、仕事を手伝って欲しいとの依頼がウィンに届く。こうして一家はウィーンに赴く。
ウィンとメアリーをはじめ5人の子供たちもクセ者揃いで、彼らが遭遇する出来事もレイプや飛行機事故、同性愛、近親相姦、自殺、テロなどイレギュラーなものばかり。それぞれのエピソードで一本映画が作れそうなほどだが、あくまで本作はサッと流すのみだ。ならば物足りないのかというと、全然そうではない。モチーフを次々と繰り出して手際よくパッパッと切り上げることで、ダイジェストゆえの速さと描写の鋭さが上手く活かされていると思う。
さらに、劇中で何度か出てくる“人生はお伽話だ”というセリフがその手法をバックアップする。少なからぬ数の登場人物が途中で退場してしまうのだが、しょせんは“お伽話”のように歴史は各人の空想的なフィクションの積み上げで全体が粛々と進んでゆくという達観が強調される。脚色も担当したトニー・リチャードソンの演出は闊達な“映像派”ぶりと、過去にいくつかの英国文学の映画化をモノにしたようにソリッドな気品というべきテイストが横溢している。
ボー・ブリッジスやリサ・ベインズ、ロブ・ロウ、一人二役のマシュー・モディーンと、キャストは賑やかだ。そして何より、ジョディ・フォスターとナスターシャ・キンスキーの“夢の共演”には本当に嬉しくなる。デイヴィッド・ワトキンのカメラによる煌めく映像美と、オッフェンバックの音楽もかなりの効果を上げている。