83年東映作品。小林信彦による原作はとても面白いのだが、この映画化作品はとことんダメである。その敗因は明らかで、製作に“吉本興業人脈”が荷担しているからだ。
外観は強面の極道連中だけど、やることなすことオフビートであるという、そのギャップで笑わせてくれた原作に対し、本作は見た目がすでに“(吉本流)お笑い”の世界に足を突っ込んでいるのが痛い。この御膳立てでさらにギャグをかましてみても、単なる芸人のネタ披露にしかならず、映画的興趣とは懸け離れるばかりだ。
三年ぶりに刑務所から出所したダーク荒巻が組に戻ってみると、そこには「唐獅子通信社」の見慣れない看板が掲げられていた。伊達酔狂な親分の気まぐれにより“ヤクザも時代に追いつかなければならない”というスローガンの元、組は会社組織に変貌し、新規事業開拓に乗り出していたのだ。荒巻はいつの間にか兄貴分の哲と共に芸能マネージメント業務を請け負わされ、新人女性歌手の世話役に任命されてしまう。
原作での荒巻は単なるコメディ・リリーフであり、中心人物は親分の無茶な命令に四苦八苦する哲の方だった。ところが、映画では主人公は荒巻である。これは無論、荒巻が哲よりも“吉本的キャラクター”であるからに他ならない。しかも、演じているのが横山やすし。これではどう転んでも吉本新喜劇の亜流にしかならない。
こういう観客から足元を見られているような企画であるためか、曾根中生の演出にもキレが無い。脚本に内藤誠と桂千穂という手練れを配しているにもかかわらず、一向に盛り上がるところが無い。しかも、脇に島田紳助や明石家さんま等が控えており、映画全体の軽薄短小さは倍加する一方である。伊東四朗や丹波哲郎は頑張っていたが、それだけでは評価出来ないだろう。
唯一印象に残ったのは、雨の中で横山と甲斐智枝美と桑名正博が踊りまくるシークエンスだ。言うまでも無くこの3人は若くして世を去っており、それを考えると、今見れば何やら切なさがこみあげてくる。なお、公開当時はこの場面を“和製フラッシュ・ダンス”と評した評論家もいた。
外観は強面の極道連中だけど、やることなすことオフビートであるという、そのギャップで笑わせてくれた原作に対し、本作は見た目がすでに“(吉本流)お笑い”の世界に足を突っ込んでいるのが痛い。この御膳立てでさらにギャグをかましてみても、単なる芸人のネタ披露にしかならず、映画的興趣とは懸け離れるばかりだ。
三年ぶりに刑務所から出所したダーク荒巻が組に戻ってみると、そこには「唐獅子通信社」の見慣れない看板が掲げられていた。伊達酔狂な親分の気まぐれにより“ヤクザも時代に追いつかなければならない”というスローガンの元、組は会社組織に変貌し、新規事業開拓に乗り出していたのだ。荒巻はいつの間にか兄貴分の哲と共に芸能マネージメント業務を請け負わされ、新人女性歌手の世話役に任命されてしまう。
原作での荒巻は単なるコメディ・リリーフであり、中心人物は親分の無茶な命令に四苦八苦する哲の方だった。ところが、映画では主人公は荒巻である。これは無論、荒巻が哲よりも“吉本的キャラクター”であるからに他ならない。しかも、演じているのが横山やすし。これではどう転んでも吉本新喜劇の亜流にしかならない。
こういう観客から足元を見られているような企画であるためか、曾根中生の演出にもキレが無い。脚本に内藤誠と桂千穂という手練れを配しているにもかかわらず、一向に盛り上がるところが無い。しかも、脇に島田紳助や明石家さんま等が控えており、映画全体の軽薄短小さは倍加する一方である。伊東四朗や丹波哲郎は頑張っていたが、それだけでは評価出来ないだろう。
唯一印象に残ったのは、雨の中で横山と甲斐智枝美と桑名正博が踊りまくるシークエンスだ。言うまでも無くこの3人は若くして世を去っており、それを考えると、今見れば何やら切なさがこみあげてくる。なお、公開当時はこの場面を“和製フラッシュ・ダンス”と評した評論家もいた。