いわゆる“ご当地映画”のメリットを最大限に活かしており、好感度が高い。もしも同じようなスキームを、都会を舞台にした全国一斉拡大公開するようなシャシンで展開したら、ウソっぽくて観ていられないだろう。しかも、扱われている主題自体は決してワザとらしかったり独りよがりなものではなく、確固とした普遍性を保持しているあたりも評価出来る。
栃木県那須塩原市を流れる箒川でスタンドアップパドルボード(SUP)のインストラクターをしている君島賢司は母子家庭で育ってきたが、その母が病気で他界して一人きりになってしまう。葬儀の日に彼は、那須塩原に移住してきたイラストレーターの森音葉と出会う。彼女は世界中を旅してきたのだが、縁あってこの地に落ち着くことを決めたのだ。
そんな中、元カノで東京在住の碧海が突然帰省してくる。賢司の母の葬儀に参列するためというのが表向きの理由だが、実はヨリを戻したいのだ。さらに、何と彼が小さい頃に事故死したと思われていた父親の翔一が姿を現す。予想外の出来事の連続で、賢司は改めて今までの人生が正しかったのか自問自答するのだった。
主人公の立場は確かに特殊だ。父親とはイレギュラーな形で一度別れているし、そもそも母親が世を去った時期とシンクロするように賢司の周りに多様な人物たちが全員集合してしまうという筋書きは御都合主義だろう。しかし、これが那須塩原の美しい自然をバックに展開してしまうと、不思議なことにあまり違和感は無い。
何より、御膳立ては変化球だが主人公および彼を取り巻く者たちの屈託が共感を抱かせるものになっている。それはつまり、過去に流されたままで良いのか、あるいは新規まき直しに専念した方が賢明なのかという逡巡だ。結論として本作は“過去に拘泥して何が悪い!”と言い切っているのがある意味痛快だが、それは断じて過去の思い出に浸ったままで前に進まないことではない。
過去をディープに掘り下げて自身の原点を見据えた上で、何をすべきか決めるという、能動的な姿勢である。それを象徴するのが、終盤近くの主人公たちの“旅”だ。箒川の源流を求める行程は、彼らのアイデンティティーを探るプロセスでもある。杉山嘉一の演出は派手さは無いが、各キャラクターを丁寧に扱っていて好感が持てる。
前田亜季に青木崇高、音尾琢真といった名の知れた俳優も出ているのだが、主演の松本享恭をはじめ小柴カリン、大原梓といった主要キャストは馴染みが無い。だが、皆良い味を出している。鳥居康剛のカメラが捉えたこの地方の風景は味わい深い。また、公開を“ご当地”だけではなく全国各地に広げてくれたのも有り難い。