(英題:Black Cat, White Cat)98年セルビア(当時はユーゴスラビア連邦)作品。鬼才エミール・クストリッツァ監督の持ち味が炸裂している一編。まあ、カタギの映画ファン(?)にはなかなか受け入れられないシャシンではあるが、この作風を承知した上で接してみれば、けっこう心地良い。なお、クストリッツァは本作で第55回ヴェネツィア国際映画祭において最優秀監督賞を獲得している。
セルビアの田舎町に住むマトゥコは、バクチや放蕩に明け暮れ、父親のザーリェからは勘当寸前だ。マトゥコは地元のヤクザであるダダンに列車強盗を持ちかけるが当初断られたため、今度は息子のザーレをダダンの妹アフロディタと結婚させようとする。この縁談が進む一方で、実はザーレは別の娘イダと恋仲であったため、アフロディタに式をボイコットするように依頼。
まんまと式場から逃げ出した彼女だが、その道中で背の高い男と出会って恋に落ちる。だが、その男はジプシー界の黒幕で、さすがのダダンも手が出せない。そんな中、このトラブルに気を病んだザーリェが急死。事態は混迷の度を増してゆく。
一応ラブコメの体裁を取っているが、ストーリー自体は支離滅裂。筋書きは行き当たりばったりに展開する。こんな有様ならば普通は絶対に評価されないところだが、そこはクストリッツァ御大、独特の“作家性”で乗り切ってしまう。
全編を彩るバルカンミュージックと、登場人物たちの素っ頓狂な言動、そして意味もなく画面上を行き来するネズミだのブタだのガチョウだの猫だのが、ドラマの整合性がどうのこうのという次元をはるかに超越した地点に作品を持っていく。当時の不穏なユーゴの情勢を笑い飛ばしてしまうような、見事な狂騒ぶりだ。それでいて、最後に物語は収まるところに収まってしまうのだから、この芸当には恐れ入るばかり。
ティエリー・アルボガストのカメラによるカラフルな映像は目を奪う。バイラム・セヴェルジャンにスルジャン・トドロヴィッチ、フロリアン・アイディーニ、サリア・イブライモヴァといったキャストはまったく馴染みが無い。しかし、作品の雰囲気には実によくマッチしている。
セルビアの田舎町に住むマトゥコは、バクチや放蕩に明け暮れ、父親のザーリェからは勘当寸前だ。マトゥコは地元のヤクザであるダダンに列車強盗を持ちかけるが当初断られたため、今度は息子のザーレをダダンの妹アフロディタと結婚させようとする。この縁談が進む一方で、実はザーレは別の娘イダと恋仲であったため、アフロディタに式をボイコットするように依頼。
まんまと式場から逃げ出した彼女だが、その道中で背の高い男と出会って恋に落ちる。だが、その男はジプシー界の黒幕で、さすがのダダンも手が出せない。そんな中、このトラブルに気を病んだザーリェが急死。事態は混迷の度を増してゆく。
一応ラブコメの体裁を取っているが、ストーリー自体は支離滅裂。筋書きは行き当たりばったりに展開する。こんな有様ならば普通は絶対に評価されないところだが、そこはクストリッツァ御大、独特の“作家性”で乗り切ってしまう。
全編を彩るバルカンミュージックと、登場人物たちの素っ頓狂な言動、そして意味もなく画面上を行き来するネズミだのブタだのガチョウだの猫だのが、ドラマの整合性がどうのこうのという次元をはるかに超越した地点に作品を持っていく。当時の不穏なユーゴの情勢を笑い飛ばしてしまうような、見事な狂騒ぶりだ。それでいて、最後に物語は収まるところに収まってしまうのだから、この芸当には恐れ入るばかり。
ティエリー・アルボガストのカメラによるカラフルな映像は目を奪う。バイラム・セヴェルジャンにスルジャン・トドロヴィッチ、フロリアン・アイディーニ、サリア・イブライモヴァといったキャストはまったく馴染みが無い。しかし、作品の雰囲気には実によくマッチしている。