(原題:消失的情人節 MY MISSING VALENTINE )中盤まではオフビートな台湾製のラブコメとして進行するが、後半はなぜかファンタジーになってしまう。結果として私が最も苦手とする“ファンタジー仕立てのラブコメ”であったことに脱力した(笑)。もちろん上手く作ってあれば文句は無いのだが、困ったことにこの手の映画にウェルメイドな脚本が付随することは、そう多くはないのだ。
郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋も冴えない毎日を送っているうちに、気が付けば30歳になっていた。実は彼女にはヘンな“能力”がある。それは、何をするにも他人よりワンテンポ早いのだ。それでもハンサムなダンス講師と知り合うことが出来、バレンタインにデートの約束をするも、目覚めるとなぜかバレンタインの翌日になっていた。一日が消失してしまったのだ。一方、毎日郵便局にやってくるバス運転手のグアタイにも妙な“能力”があった。それは常に周囲よりワンテンポ遅いのである。バレンタインの日、彼は自分以外の“時間”が止まっていることに気付く。
この2人が周囲と約1秒ズレていることを、単なる“変わった癖”と割り切って、おかしな御両人のすれ違いの恋愛道中を面白おかしく描く映画だと思っていたら、何だか無理矢理に辻褄を合わせようと絵空事に走ってしまったようで愉快になれない。つまりは“理詰めにしようとしたら、逆に理屈が飛んでしまった”というパラドックスに陥っているのだ。
クアタイが体験する時間が停止した世界は、なぜかバスは普通に走るし海の波も風も変化は無い。そもそも、身体が動かなくなったシャオチーをはじめ他の者たちをクアタイが“自由に”移動させているのは違和感が満載だ。加えて言えば、ワンテンポのズレを“清算”するのがどうしてバレンタインデーだったのかも説明されていない。
終盤の展開はラブコメの常道としてはあり得るのかもしれないが、個人的には取って付けたようにしか思えず脱力した。監督のチェン・ユーシュンは過去に「熱帯魚」(95年)と「ラブゴーゴー」(97年)という大快作をモノしているが、本作ではどうもキレ味に欠ける。
主演のリー・ペイユーとリウ・グァンティンは好演だが、私が注目したキャストはシャオチーの職場の後輩を演じたヘイ・ジャアジャアである。彼女の本職は女優ではなく、なんとプロの囲碁棋士だ(台湾棋院所属 七段)。しかも、相当な実力者で、棋風は堅実でブレがない。モデル業も順調とかで、多芸多才な人間というのは確実に存在するのだと、改めて思う。
郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋も冴えない毎日を送っているうちに、気が付けば30歳になっていた。実は彼女にはヘンな“能力”がある。それは、何をするにも他人よりワンテンポ早いのだ。それでもハンサムなダンス講師と知り合うことが出来、バレンタインにデートの約束をするも、目覚めるとなぜかバレンタインの翌日になっていた。一日が消失してしまったのだ。一方、毎日郵便局にやってくるバス運転手のグアタイにも妙な“能力”があった。それは常に周囲よりワンテンポ遅いのである。バレンタインの日、彼は自分以外の“時間”が止まっていることに気付く。
この2人が周囲と約1秒ズレていることを、単なる“変わった癖”と割り切って、おかしな御両人のすれ違いの恋愛道中を面白おかしく描く映画だと思っていたら、何だか無理矢理に辻褄を合わせようと絵空事に走ってしまったようで愉快になれない。つまりは“理詰めにしようとしたら、逆に理屈が飛んでしまった”というパラドックスに陥っているのだ。
クアタイが体験する時間が停止した世界は、なぜかバスは普通に走るし海の波も風も変化は無い。そもそも、身体が動かなくなったシャオチーをはじめ他の者たちをクアタイが“自由に”移動させているのは違和感が満載だ。加えて言えば、ワンテンポのズレを“清算”するのがどうしてバレンタインデーだったのかも説明されていない。
終盤の展開はラブコメの常道としてはあり得るのかもしれないが、個人的には取って付けたようにしか思えず脱力した。監督のチェン・ユーシュンは過去に「熱帯魚」(95年)と「ラブゴーゴー」(97年)という大快作をモノしているが、本作ではどうもキレ味に欠ける。
主演のリー・ペイユーとリウ・グァンティンは好演だが、私が注目したキャストはシャオチーの職場の後輩を演じたヘイ・ジャアジャアである。彼女の本職は女優ではなく、なんとプロの囲碁棋士だ(台湾棋院所属 七段)。しかも、相当な実力者で、棋風は堅実でブレがない。モデル業も順調とかで、多芸多才な人間というのは確実に存在するのだと、改めて思う。