81年松竹作品。秀作「砂の器」(74年)や「事件」(78年)などで知られた野村芳太郎監督は多くの作品を手掛けているが、実はその中には何とも評価に困るようなシャシンがいくつかある。本作は「震える舌」(80年)や「ねずみ小僧怪盗伝」(84年)と並ぶ、同監督による“珍作”として記憶に残る映画だ。
神経科医の会沢のもとに、稲川圭子と名乗る若い女が訪ねてくる。彼女は“診て欲しいのは自分ではなく、婚約者の田村樹生だ”と言うのだ。樹生には兄が3人いるが、ここ数ヶ月の間に相次いで失踪しており、次は自分ではないかと悩んでノイローゼ気味らしい。その話に興味を覚えた会沢は樹生を診察するが、樹生は最近妙な夢を見るという。会沢はそれが“予知夢”ではないかと考え、夢の記述を提案する。圭子はその夢の内容を追って樹生の兄たちの家を訪ねるが、この失踪事件の裏に謎めいた老人の存在があることを突き止める。遠藤周作の小説「闇の呼ぶ声」(私は未読)の映画化だ。
出始めはミステリー調、しばらくするとオカルト風味が強くなり、中盤以降は社会派めいた趣になったと思ったら、ラスト近くは当時話題になっていた某アメリカ映画の物真似みたいなキャラクターが出てきて、要領を得ないまま終わる。そもそも、主人公であるはずの圭子は出番が多い割にはほとんど印象に残らない。ハッキリ言って、いてもいなくても良いのだ。
圭子に扮しているのはこの頃トレンディな(?)人気を誇っていた小林麻美だが、演技力はほぼ無い。ただし一所懸命やっているのは分かるので、あまり気分は害しない(笑)。それよりも困ったのは、場違いとも思える周囲の豪華キャストだ。高橋悦史に米倉斉加年、小林薫,宮下順子、下條アトム、藤田まこと、渡瀬恒彦、芦田伸介らが顔を揃えている。ただし、映画自体の内容がアレなので、彼らが真面目に演技すればするほどドラマ自体は浮いてしまう。
さらに丹波哲郎が“それらしい役”で出てきたり、女子アナの頼近美津子が“女優”として出演していたりと、雰囲気はイロモノの様相を呈してくる。野村御大の演出は、野上龍雄による八方破れ的な脚本を前に途方に暮れているような様子で、とにかく気合いが入っていない。ただし、現時点では一種のカルト的な作品として評価される可能性はある。
神経科医の会沢のもとに、稲川圭子と名乗る若い女が訪ねてくる。彼女は“診て欲しいのは自分ではなく、婚約者の田村樹生だ”と言うのだ。樹生には兄が3人いるが、ここ数ヶ月の間に相次いで失踪しており、次は自分ではないかと悩んでノイローゼ気味らしい。その話に興味を覚えた会沢は樹生を診察するが、樹生は最近妙な夢を見るという。会沢はそれが“予知夢”ではないかと考え、夢の記述を提案する。圭子はその夢の内容を追って樹生の兄たちの家を訪ねるが、この失踪事件の裏に謎めいた老人の存在があることを突き止める。遠藤周作の小説「闇の呼ぶ声」(私は未読)の映画化だ。
出始めはミステリー調、しばらくするとオカルト風味が強くなり、中盤以降は社会派めいた趣になったと思ったら、ラスト近くは当時話題になっていた某アメリカ映画の物真似みたいなキャラクターが出てきて、要領を得ないまま終わる。そもそも、主人公であるはずの圭子は出番が多い割にはほとんど印象に残らない。ハッキリ言って、いてもいなくても良いのだ。
圭子に扮しているのはこの頃トレンディな(?)人気を誇っていた小林麻美だが、演技力はほぼ無い。ただし一所懸命やっているのは分かるので、あまり気分は害しない(笑)。それよりも困ったのは、場違いとも思える周囲の豪華キャストだ。高橋悦史に米倉斉加年、小林薫,宮下順子、下條アトム、藤田まこと、渡瀬恒彦、芦田伸介らが顔を揃えている。ただし、映画自体の内容がアレなので、彼らが真面目に演技すればするほどドラマ自体は浮いてしまう。
さらに丹波哲郎が“それらしい役”で出てきたり、女子アナの頼近美津子が“女優”として出演していたりと、雰囲気はイロモノの様相を呈してくる。野村御大の演出は、野上龍雄による八方破れ的な脚本を前に途方に暮れているような様子で、とにかく気合いが入っていない。ただし、現時点では一種のカルト的な作品として評価される可能性はある。