(原題:THE PERSONAL HISTORY OF DAVID COPPERFIELD )こういう映画は嫌いだ。向こう受けを狙いすぎたケレン味たっぷりの展開と、小手先の映像ギミックの洪水。いかにも“(文芸作品を下敷きにして)オフビートなタッチを披露してみました”と言わんばかりのモチーフの連続に作り手の鼻持ちならない態度が透けて見え、観ている間は何度も中途退場しようと思ったほどだ。
主人公デイヴィッドは母と家政婦の3人で幸せに暮らしていたが、母親の再婚相手は横暴な野郎だった。デイヴィッドはその男が経営する工場に売り飛ばされ、辛い労働を強いられる。母の死も知らされずに酷使されていたことが分かった時、彼は脱走して唯一の肉親である裕福な伯母のもとに身を寄せる。
名門校にも通えるようになり、やっとマトモな生活を送れるかと思ったのも束の間、伯母の家は破産して路頭に迷うことになる。それでも、今まで体験したことを面白おかしく書き留め、自分なりの物語を綴ることを忘れなかった。イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの代表作「デイヴィッド・コパフィールド」の映画化だ。
原作は読んでいないのでこの映画がどの程度元ネタを網羅しているのか知らないが、ドラマのデタラメぶりには呆れる。主人公はどう見てもインド系なのだが、親は白人。さらには黒人や東洋人が血縁関係を完全無視して跳梁跋扈する。それが面白いのかというと、全然そうではない。単に奇を衒っただけに終わっている。
ならばストーリーはどうかというと、これが行き当たりばったりに進むだけで何の興趣もカタルシスも無い。登場人物たちは大仰な身振り手振りでコメディ風味を強調するが、少しも笑えない。フェデリコ・フェリーニ作品の劣化コピーみたいなキッチュな美術セットや、ヘンに凝ってはいるが目が疲れるだけの映像処理にも脱力だ。特に、画面の中心部分だけピントを合わせ、周囲をソフトフォーカスでボケさせるという処理が頻繁に出てくるが、これが実に鬱陶しくてイヤな気分になる。
アーマンド・イアヌッチの演出は、自分だけが楽しんでいるだけで広範囲な訴求力に乏しい。主演のデヴ・パネルをはじめ、アナイリン・バーナード、ロザリンド・エリーザー、ティルダ・スウィントン、ベン・ウィショーらキャストは面白みがない。わずかにピーター・キャパルディとヒュー・ローリーだけは目立っていたが、ドラマを引っ張る原動力にはならず。結局、本作を観て敵役のユライア・ヒープが、あのロックバンドの名称の由来になったことを知ったことが唯一の収穫だった。
主人公デイヴィッドは母と家政婦の3人で幸せに暮らしていたが、母親の再婚相手は横暴な野郎だった。デイヴィッドはその男が経営する工場に売り飛ばされ、辛い労働を強いられる。母の死も知らされずに酷使されていたことが分かった時、彼は脱走して唯一の肉親である裕福な伯母のもとに身を寄せる。
名門校にも通えるようになり、やっとマトモな生活を送れるかと思ったのも束の間、伯母の家は破産して路頭に迷うことになる。それでも、今まで体験したことを面白おかしく書き留め、自分なりの物語を綴ることを忘れなかった。イギリスの文豪チャールズ・ディケンズの代表作「デイヴィッド・コパフィールド」の映画化だ。
原作は読んでいないのでこの映画がどの程度元ネタを網羅しているのか知らないが、ドラマのデタラメぶりには呆れる。主人公はどう見てもインド系なのだが、親は白人。さらには黒人や東洋人が血縁関係を完全無視して跳梁跋扈する。それが面白いのかというと、全然そうではない。単に奇を衒っただけに終わっている。
ならばストーリーはどうかというと、これが行き当たりばったりに進むだけで何の興趣もカタルシスも無い。登場人物たちは大仰な身振り手振りでコメディ風味を強調するが、少しも笑えない。フェデリコ・フェリーニ作品の劣化コピーみたいなキッチュな美術セットや、ヘンに凝ってはいるが目が疲れるだけの映像処理にも脱力だ。特に、画面の中心部分だけピントを合わせ、周囲をソフトフォーカスでボケさせるという処理が頻繁に出てくるが、これが実に鬱陶しくてイヤな気分になる。
アーマンド・イアヌッチの演出は、自分だけが楽しんでいるだけで広範囲な訴求力に乏しい。主演のデヴ・パネルをはじめ、アナイリン・バーナード、ロザリンド・エリーザー、ティルダ・スウィントン、ベン・ウィショーらキャストは面白みがない。わずかにピーター・キャパルディとヒュー・ローリーだけは目立っていたが、ドラマを引っ張る原動力にはならず。結局、本作を観て敵役のユライア・ヒープが、あのロックバンドの名称の由来になったことを知ったことが唯一の収穫だった。