駄作である。どうでも良いようなモチーフを、これまたどうでも良いような感覚で羅列しているだけ。求心力もパッションも、深いテーマの提示もエンタテインメント性も無い。しかも、NBC長崎放送の創立60周年記念映画でありながら、長崎の町に対する愛情も思い入れも描けていない。存在価値はゼロだ。
ヒロインの清水は長崎市の大学に通い、勉学もクラブ活動も男関係も充実した毎日を送っていたが、母親が急に心臓発作でこの世を去ってしまう。母からの最後の電話が掛かってきた時に彼氏と会っていたため出られなかったことで、彼女は罪悪感に苛まされることになる。一方、1年前に幼い娘を病気で亡くした砂織はいまだに悲しみから立ち直れない。そんな中、妊娠していることが判明するが、産んでもまた子供を失うことにならないかと悩み、精神のバランスを崩してしまう。
そして砂織が意識朦朧になり車にひかれそうになったのを、偶然助けたのが清水であった。二人は互いの境遇を打ち明けることにより、心を通わせるようになる。
砂織の家は代々カトリックである。清水の幼馴染みの青年・勇一は、何かの“儀式”に取り憑かれている。ところが、こういう宗教ネタが主人公達を救うことは一切無い。それどころか、存在そのものが鬱陶しい。清水の母と砂織の娘の死は、親や祖父母が被爆したことに基因しているかもしれない・・・・というネタが振られるが、明確な因果関係は示されない。ということは、被爆とは関係無い可能性だってあるのだ。
この映画は、長崎への原爆投下および被爆という厳粛な事実の周りを、やれキリスト教だカルト宗教だメンタル障害だといった手前勝手な屈託を振りかざした連中が、へっぴり腰のまま取り巻いているという図式を漫然と映しているだけだ。
終盤、勇一の住む家が火事になり、そして砂織の実家の屋根裏部屋での不穏な物音の正体が明らかになり、それらをきっかけにして登場人物達が“転機”を迎えるといったような空疎な展開(らしきもの)が示されるに及び、あまりのくだらなさに溜息が出てきた。
冒頭近くに清水とボーイフレンドとのベッドシーンが映し出されるが、これがエロティックさもリアリティもまったくない弛緩した描写であったことに代表されるように、この日向寺太郎とかいう監督には実力のカケラも感じられない。何より北乃きいや稲森いずみ、柳楽優弥、佐野史郎、杉本哲太、宮下順子、池脇千鶴、石橋蓮司といった豪華なキャストを揃えていながら各俳優の魅力を全然出せていないことには呆れ果ててしまう。NBCのスタッフの中には、こういうどうしようもない映画が製作されることに異を唱える者はいなかったのだろうか。