(原題:THE SHAPE OF WATER)生理的に受け付けない映画だ。あのクリーチャー造型のヌメヌメした質感や生態を見せつけられた時点で、早々に劇場を後にしたくなる。だが、こんな個人的な好悪のレベルを別にしても、本作のクォリティは及第点には程遠い。ハッキリ言って、よくこんな穴だらけの筋書きで各種アワードを獲得したものだと思う。
1962年、政府の軍関係の極秘研究所で清掃員として働くイライザは、過去のトラウマによって声が出せない。友人は同僚のゼルダと、同じ下宿に住むイラストレーターのジャイルズだけ。ある日彼女は、密かに運び込まれた不思議な生き物を目撃する。それはアマゾンで神のように崇拝されていた半魚人だった。イライザはその半魚人に興味を持ち、こっそり会いに行くようになる。2人は少しずつ分かり合えるようになるが、研究所ではその個体を詳しく調べるために、解剖することを決定する。彼女は仲間と一緒に半魚人を救い出そうとするが、サディスティックな研究所員のストリックランドは、執拗に追い込みを掛ける。
まず、一介の掃除婦が重要軍事機密を保管している部屋にフリーパス同然で入り、簡単にくだんのクリーチャーと“接触”するという設定自体が噴飯ものだ。アマゾンの奥地で生息しているはずの半魚人に、なぜか海水が必要とされ、しかも映画の後半には淡水の中でも平気で動き回っているという一貫性のなさ。
半魚人はいくら拷問されても銃で撃たれてもダメージを受けないのに、後半は何の理由も示さず“弱っている”というハナシになっている。ストリックランドは半魚人に指を食いちぎられても病院に行かず、さらにその指に関するネタを最後まで引っ張る割には何のメタファーにもなっていない。
そして最大の難点は、イライザがこのクリーチャーと“恋仲”になってゆく背景が全く語られていないことだ。普通、ああいう不気味なモンスターに恋心を抱く人間はいない(だいたい、オスかメスかも分からないだろう)。百歩譲って“それでもいるのだ!”と強弁したいのならば、せめてこの女が以前から魚介類に対して強い執着を持っていることぐらい、前振りとして示すべきだ。単に“口がきけなくて孤独だったから”という釈明で、すべての観客を納得させることが出来ると思ったら大間違いである。
斯様に突っ込みどころ満載の筋書きを漫然と提示した後、まるで「美女と野獣」か「スプラッシュ」のパロディのような構図で安易に感動を誘おうとしても、そうはいかない。
ギレルモ・デル・トロの演出は平板そのもので山場も無く、かと思えばイマジネーションに乏しい下品なエロ描写でお茶を濁しているあたり、脱力せざるを得ない。ミュージカルや古い映画の“引用”も、あまり芸は無い。主演のサリー・ホーキンスをはじめ、マイケル・シャノンやリチャード・ジェンキンス、オクタヴィア・スペンサーなどキャストは頑張ってはいたが、映画の中身が斯くの如しなので感心するには至らず。アレクサンドル・デスプラよる流麗なスコアも空しく響く。ヴェネツィア国際映画祭やアカデミー賞での受賞は、何かのトレンドに“忖度”した結果としか思えない。