(英題:Rebels of the Neon Gold )92年台湾作品。台北、西門町。主人公シャオカン(リー・カンション)は受験間近の予備校生だが、さっぱり勉強に身が入らない。アツー(チェン・チャオロン)は歓楽街で友人アピン(レン・チャンピン)と遊ぶ小銭を盗んでは、欝屈した日々を送っている。アツーと付き合っている少女アクイ(ワン・ユーウェン)はローラースケート場で働いているが、退屈な毎日をテレクラで紛らわせている。シャオカンが交差点でアツーとアクイが乗ったバイクに見とれたことから、4人の生活が少しずつ影響し合うようになる。台湾の名匠ツァイ・ミンリャン監督のデビュー作だ。
とにかくシャオカンのキャラクターが圧倒的だ。自分で“このままじゃダメだ”と思いつつ、予備校も勝手に辞めフラフラした生活にのめり込んでいく。親は自分に期待している。父親は何とか息子とのコミュニケーションを取ろうと努力している。本人もそれはわかっている。でもどうしようもない。
アツーたちと接触したいと思っても、自然な行動をとれない。出来るのは彼らのあとをつけるだけ。極めつけは、アツーとアクイがラブホテルに入っている間にアツーのバイクをメチャクチャにするシーン。困り果てたアツーを物陰から見て大喜びする。ボロボロのバイクを押して歩くアツーのあとをスクーターで追い、一度は知らぬ顔して通り過ぎるが、また戻って“手伝おうか?”などとワザとらしく声をかけたりする。
なんてイヤな奴。しかし、これを見て“男ならバシッと自分の気持ちを出さんかい! ウジウジするな”と片付けてしまうのは、残念ながら“大人の勝手な論理”に過ぎないと思う。この年代で、しかも行き場のない状況に立たされている若者ならば、程度の差こそあれ、こんな気持ちになって当然だと思う。正直言って私もそうだった。
シャオカンは自分が何やってるか承知している。いかにイヤな性格かわかっている。相手を不愉快にさせているのもわかるし、それがどんなに悪いことかも知っている。それでもマゾヒスティックに陰湿な行為に自分を追い込んで行く。他人を傷つけることでしか他者との関わりが取れなくなっている。このどうしようもない若者像の、何とリアルに描かれていることか。はっきり言ってシャオカンを除いた3人だけのドラマだったら、単なる不良少年もののルーティンしか提示できなかったはずだ。
ツァイ・ミンリャンの仕事ぶりは容赦なし。登場人物のみっともなさをヒリヒリするほど具体的に差し出して、しかも演出態度には屈折した部分はなく、ストレートに観客に迫ってくる。ツァイ監督とずっとコンビを組むことになるリー・カンションの演技にも瞠目させられる。トリノ映画祭最優秀新人監督賞などを受賞。93年の東京国際映画祭でも銅賞を受賞している。
とにかくシャオカンのキャラクターが圧倒的だ。自分で“このままじゃダメだ”と思いつつ、予備校も勝手に辞めフラフラした生活にのめり込んでいく。親は自分に期待している。父親は何とか息子とのコミュニケーションを取ろうと努力している。本人もそれはわかっている。でもどうしようもない。
アツーたちと接触したいと思っても、自然な行動をとれない。出来るのは彼らのあとをつけるだけ。極めつけは、アツーとアクイがラブホテルに入っている間にアツーのバイクをメチャクチャにするシーン。困り果てたアツーを物陰から見て大喜びする。ボロボロのバイクを押して歩くアツーのあとをスクーターで追い、一度は知らぬ顔して通り過ぎるが、また戻って“手伝おうか?”などとワザとらしく声をかけたりする。
なんてイヤな奴。しかし、これを見て“男ならバシッと自分の気持ちを出さんかい! ウジウジするな”と片付けてしまうのは、残念ながら“大人の勝手な論理”に過ぎないと思う。この年代で、しかも行き場のない状況に立たされている若者ならば、程度の差こそあれ、こんな気持ちになって当然だと思う。正直言って私もそうだった。
シャオカンは自分が何やってるか承知している。いかにイヤな性格かわかっている。相手を不愉快にさせているのもわかるし、それがどんなに悪いことかも知っている。それでもマゾヒスティックに陰湿な行為に自分を追い込んで行く。他人を傷つけることでしか他者との関わりが取れなくなっている。このどうしようもない若者像の、何とリアルに描かれていることか。はっきり言ってシャオカンを除いた3人だけのドラマだったら、単なる不良少年もののルーティンしか提示できなかったはずだ。
ツァイ・ミンリャンの仕事ぶりは容赦なし。登場人物のみっともなさをヒリヒリするほど具体的に差し出して、しかも演出態度には屈折した部分はなく、ストレートに観客に迫ってくる。ツァイ監督とずっとコンビを組むことになるリー・カンションの演技にも瞠目させられる。トリノ映画祭最優秀新人監督賞などを受賞。93年の東京国際映画祭でも銅賞を受賞している。