大林宣彦監督の作品に接するのは久しぶりだ。しかも、本作は同監督の“遺作”になる可能性もある3時間の大作。期待は高まったが、実際に観てみると何とも評価に困るようなシャシンである。この監督は出来不出来の差が激しいが、有り体に言えば、これはどうやら“不出来”のカテゴリーに入りそうなのだ。
昭和16年の春、17歳の俊彦は佐賀県唐津市にある大学校に通うため、叔母の圭子のもとに身を寄せていた。クラスメイトはストイックな秀才の鵜飼、虚無僧のような吉良、お調子者の阿蘇など、個性豊かな面子ばかり。俊彦は肺病を患う従妹の美那を意識するようになるが、女友達のあきねや千歳とも仲が良い。だが、戦争の影は確実に彼らに迫ってくる。圭子の夫はすでに満州に出征して帰らぬ人になっており、担当教官の山内にも赤紙が届く。そして同年12月8日を迎え、彼らは人生の岐路に立たされる。原作は檀一雄が日中戦争が勃発した昭和12年に発表した短編小説だが、時代設定を変更している。
最初のショットから、大林監督の初期作品を思わせるような映像ギミックの洪水だ。自然の風景はほとんど無く、多くがキッチュな舞台セットの中で話が展開する。また、圭子と美那の立ち振る舞いや、同性愛を匂わせるあたり大林が自主映画として66年に撮った「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ」を思い起こさせる。
とにかく力の入った作品であることは分かるのだが、感銘度は低い。それは全体の方向性が“反戦映画”という分野に固定され、作劇に限界を感じさせているからだ。
農道を行進する兵士のイメージや、それに見立てた案山子が田んぼの中に沢山立っている場面が何度も挿入される。確かに登場人物達が辛酸を嘗めるのは、すべて戦争のせいである。それは重々承知しているものの、まるで鈴木清順監督の諸作のような奔放な映像イメージも、すべては“反戦映画”の枠内でしか捉えられていない。
そこには清順映画には存在していた、底の見えない禍々しさや淫靡さは見られない。すべてが“語るに落ちる”レベルなのだ。加えて、同じショットが何度も映し出され、無駄に上映時間が水増しされている。大林御大の作品(しかも、単館系)であるからこそ、それらは放置されていたのだと邪推するが、一般の娯楽映画では通用しない所業である。
窪塚俊介扮する俊彦は、いくら大林作品とはいえ言動が極端に幼い。しかも、窪塚をはじめ満島真之介や長塚圭史、柄本時生など25歳をとっくに過ぎた俳優たち(特に長塚は40歳超)が学生を演じているのは、違和感しか覚えない。一応ヒロインとの設定である美那役の矢作穂香は、見掛けが可愛いだけで表情に乏しく、観ていて面白くない。圭子を演じる常盤貴子や山崎紘菜、門脇麦といった女性陣はさすがに存在感を発揮していたが、それでけでは映画全体を支えられない。
唯一面白かったのが、当地の重要イベントである“唐津くんち”が大々的にフィーチャされていることだ。私は何回か見たことがあるが、実に楽しい。この祭りを紹介したことは、本作の功績であろう。