2017年にノーベル文学賞を受賞したイシグロの小説は、2本の映画化作品(「日の名残り」と「わたしを離さないで」)は観ているが、読んだことがなかった。丁度良い機会なので、一冊手にしてみた。本書は2015年に執筆されており、現時点では最新作である。内容はかなり含蓄に富んでおり、読み応えがあった。しかしながら、いたずらに高踏的で読者にプレッシャーをかけるようなものではない。文体は平易でありながら、テーマは奥深いという、ある種理想的なスタイルを取っている。
6世紀のイングランドは、サクソン人の侵入を迎え撃ったアーサー王は死去したものの、小康状態を保っていた。寒村に住んでいたブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスは、昔家を出て行った息子に会うために旅に出る。途中で“円卓の騎士”の一人であったガウェイン卿やサクソン人の騎士ウィスタン、そしてエドウィン少年に出会い、旅の道連れとする。
一方、この頃国全体が正体不明の霧に覆われ、そのせいで人々は断片的な記憶喪失に罹っていた。アクセル達も、息子が遠くで暮らしている理由さえ思い出せないのだ。この霧は雌竜が吐く息が原因であるらしく、ウィスタンはそれを退治しようとしていた。一行は悪天候に悩まされ、修道院で鬼に襲われるなど危うく殺されそうになるが、何とか切り抜けて雌竜が生息している場所までたどり着く。だが、そこで思わぬ真実が明らかになる。
私の苦手なファンタジー物だが(笑)、完全な絵空事ではなく実在の土地を舞台に史実を交えながら展開するので、あまり違和感は覚えなかった。読んでいる間は題名にある“巨人”が出てこないじゃないかと訝しんだが、終盤でその“種明かし”があって納得する。
世界は雌竜が吐く息によって憎悪や怨恨が“忘却”されてしまえば、それで一応の調和を見るのかもしれない。ところが、それらは取り敢えずは“忘れられた”ものではあるが、決して消滅はしていない。何かの拍子に表面化してしまう恐れもある。歴史において“忘却”の扱いを受けるに相応しい事実と、決して埋もれさせてはいけないモチーフがあるのは確かだ。だが、その取捨選択を取り間違い、あるいは権力による故意に誤った取捨選択が横溢してしまえば、世の中は乱れるばかりである。また、それは現代の世界のリアルなのだ。
この複雑な状況をファンタジーの形で図式化したイシグロの意欲は、大いに評価して良い。妻を“お姫様”と呼んでいたわるアクセルをはじめ、各キャラクターは実によく“立って”いる。無常的なラストも印象的で、読む価値のある書物だと言える。
6世紀のイングランドは、サクソン人の侵入を迎え撃ったアーサー王は死去したものの、小康状態を保っていた。寒村に住んでいたブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスは、昔家を出て行った息子に会うために旅に出る。途中で“円卓の騎士”の一人であったガウェイン卿やサクソン人の騎士ウィスタン、そしてエドウィン少年に出会い、旅の道連れとする。
一方、この頃国全体が正体不明の霧に覆われ、そのせいで人々は断片的な記憶喪失に罹っていた。アクセル達も、息子が遠くで暮らしている理由さえ思い出せないのだ。この霧は雌竜が吐く息が原因であるらしく、ウィスタンはそれを退治しようとしていた。一行は悪天候に悩まされ、修道院で鬼に襲われるなど危うく殺されそうになるが、何とか切り抜けて雌竜が生息している場所までたどり着く。だが、そこで思わぬ真実が明らかになる。
私の苦手なファンタジー物だが(笑)、完全な絵空事ではなく実在の土地を舞台に史実を交えながら展開するので、あまり違和感は覚えなかった。読んでいる間は題名にある“巨人”が出てこないじゃないかと訝しんだが、終盤でその“種明かし”があって納得する。
世界は雌竜が吐く息によって憎悪や怨恨が“忘却”されてしまえば、それで一応の調和を見るのかもしれない。ところが、それらは取り敢えずは“忘れられた”ものではあるが、決して消滅はしていない。何かの拍子に表面化してしまう恐れもある。歴史において“忘却”の扱いを受けるに相応しい事実と、決して埋もれさせてはいけないモチーフがあるのは確かだ。だが、その取捨選択を取り間違い、あるいは権力による故意に誤った取捨選択が横溢してしまえば、世の中は乱れるばかりである。また、それは現代の世界のリアルなのだ。
この複雑な状況をファンタジーの形で図式化したイシグロの意欲は、大いに評価して良い。妻を“お姫様”と呼んでいたわるアクセルをはじめ、各キャラクターは実によく“立って”いる。無常的なラストも印象的で、読む価値のある書物だと言える。